水村美苗「私小説」感想

 美苗は、幼い頃にアメリ東海岸に移住した。愛する日本と日本語から遠く離れたまま、外国人と英語に囲まれた生活をずっと送り続けることになる。
 やがて二十年が過ぎ、ついには若くない孤独な大学院生に成り果てる。そして、日本語の小説を書くという決心をする。


 本作は、美苗の姉である奈苗との長電話を中心に語られている。二人ともアメリカでの生活が長く、会話には英語が混じる。そのため本書は横書きで、副題にあるとおり左から右へ読むようになっている。


私小説」というタイトルの通り、内容は著者自身の境遇や生活ばかりだ。昇華や浄化の機会のない濃密な孤独と、上滑りし続ける憧憬が綿密に語られる。序盤はほとんど女性版「地下室の手記」のようだった。


 美苗は幼い頃から日本文学の全集を繰り返し読んできた。異国の地で唯一心の安らぐ時間が、近代日本の小説を読む時間だった。自分の身体の中に日本文学を刻み込みながらも、英語の中で生きていくことを強いられる。美苗は、独りで日本(及び日本文学)を背負って立つような宿命を帯びる。


 後の著作である「日本語が亡びるとき」で著者自身が明らかにしているが、実はこの作品は、英語かぶれのようでありながら、英語にだけはどうしても翻訳できないのだ。
 なぜなら、全編を英語にすると会話中の英語の部分が埋没してしまう。英語との距離感や日本語への憧れ、日本語を抱えながらも英語の世界に生きること、そういったものが、英語だけではどうしても表現できない。
 この当時既に「日本語が亡びるとき」の問題意識は著者にあったのだと思う。美苗は、世界における日本語の立場とほとんどイコールなのだ。


 この小説の中では、幾つもの憧れが描かれ、その憧れが憧れのまま終わるのが描かれる。ほとんどの人間は大きな変化というものを経験しない。
 若い頃は変化に憧れていただろうし、変化が存在することをどこかで信じきっていたのだろう。だが、変化はいつまで待ってもやって来なかった。
 ただ、美苗だけは、大きな変化に向けて舵を切ることになる。


 美苗が憧れる日本語や日本は、もはや美苗自身の中にしか存在しない。日本で生きている僕たちにはそれが良く分かる。憧れや憧れの対象とは、結局そんなものなのかもしれない。

私小説 from left to right (新潮文庫)

私小説 from left to right (新潮文庫)