潜る

 良い文章というのは、誰にも分からなかったことを誰にでも分かるように書いたものだという。逆に言えば、最悪の文章は、誰でも分かることを誰にも分からなく書いたものだということになる。
 僕の周囲の小説仲間で、純文学とそうでない娯楽作品の違いについて良く疑問が上がっていた。僕もしばらく明確な答えが出せなかった。作品を読んでみればそれが純文学的作品か、それとも娯楽作品か何となく言うことができる。でもそれは「何となく」に過ぎなくて、はっきりとした論理的な区別がつけられなかった。
 いま、僕は僕なりに文学の定義を抱いている。それはやっぱり「まだ言葉にされていないものを言葉にしようとすること」なのだと思う。そうすることで、大げさに言えば人類を進歩させるのだ。本当に偉大な作品は、書かれる前と書かれた後で人類を変えてしまう。ドストエフスキープルーストのいない人類なんて考えられるだろうか? 紫式部夏目漱石のいない日本人なんて考えられるだろうか?
 純文学作品が娯楽として面白かったとしても、それはたまたまで、作品の本質ではないと思う。逆もまた然りで、娯楽小説が文学的に優れているように見えても、それもたまたまで作品の本質ではない。娯楽小説は何よりもまず「娯楽」であることが最低条件で、それを満たさないと作品として失敗だ。純文学小説も「文学」であることが最低で、そこを満たさないとダメだ。本質的な目的がそれぞれ違うのだ。
 僕はずっと曖昧なキメラのような状態で文章を書いていた。娯楽小説を書く集団の中にいて、娯楽小説の評価基準のもとに悩み、娯楽小説の方法論をどうにかして自分の内心に当てはめようとしていた。
 だけどそれは間違いだった。僕はずっと、未知の海域を探索することに憧れていたのだ。
 娯楽小説は、いわば確定しきった航路を往復する客船だ。それは人を楽しませ、慰める。だけど、安全な航路だけを辿り、未知の海域に漕ぎ出すようなことはしない。娯楽小説には定まった方法論があって、それに従えばどんなストーリーもある程度娯楽になるのだ。
 純文学は、未発見の島や大陸・生き物たちを目指して、未知の海域に積極的に漕ぎ出していく。そこに従来の方法論は通用しない(使うのは自由だけど)。既定の航路をあえて踏み外し、読者を欺き、不安にさせ、時には生命の危険すら感じさせる。難破する船もある。
 未知の海域に漕ぎ出すということ。僕の内心はいつも僕自身にそれを命じていたのだ。定まった方法論じゃない、読者を喜ばせるストーリーやプロットだけじゃない、何かを見つけなさい、と。
 これから僕は、何かを見つけるために、未知の暗い海域へと潜っていく。〆切は6月31日。枚数は100枚。専門学校で一番最初に書いた作品を、本来あるべき姿で書き直す。それは、T先生に手向ける1本の花ともなるだろう。