まどろむカラスの黒い夢

 都会のまんなか お堀のほとりで
 僕はやはり
 カラスを脱っせずにいた
 ずるがしこくて うすぎたない
 そんな彼らに対する共感は たぶん
 カラスよりずっと多い人間への好意よりも
 ずっと的を得たもののように思われた


 そんな僕にも たまには電話がかかってくる
 あれは夜だった スターバックスの2階で
 OLの下品な会話を傍聴しながら
 カビのコロニーみたいな灯火がはびこる
 夜を眺めながら
 ホワイトチョコモカフラペチーノを僕はすすっていたっけ
 ポケットの中で不意に
 目を覚ました小鳥みたいに
 携帯が震えた
『宗教』
 と、1行だけのメモディスプレイには表示されていた


 電話の主は友人でもなければ古くもない
 仏の功徳を高らかに歌い上げ
 やがて訪れるだろう天罰の恐ろしさに声を低め
 そうして 試行の大切さについて語るのだった
 僕はくぐもった声で相槌を打ちながら
 細い緑色のストローでクリームの溶け込んだコーヒーをかきまぜながら
 ホワイトチョコモカフラペチーノの正しい飲み方についてずっと考えていた


 幸運は不条理で
 嘲りこそ命の糧だと
 冷笑を続けるひとりのカラスに
 仏がいったい何の用向きだろう?
 9600bpsの電波に乗った
 男の言葉は
 OLの笑い声に混じって
 スポット状の灯火を少しだけ明滅させただけだった


 電話のことはさておき
 僕も神様をみたことはある――


 邪悪なカラスが抱くには
 恐ろしく邪悪な悩みを抱いたまま
 僕は武蔵国の故郷へ降り立った
 すでに地球の影は大地を覆っていて
 冷たく澄んだ闇が
 旧い家並みのあいだに行き渡っていた
 青白い光をまとった月が空のまんなかに昇っていて
 月を抱え込むようにして伸びた梢が風を受けていた
 風のたびにゆすがれる木々の黒い茂みは
 遠い夜の海から借りてきたような 波頭の崩れる静かな轟きを
 僕の頭上にいつまでも響かせてくれるのだった


 たぶん今も忘れていない
 神様とともにあった時間には
 邪悪も悩みも
 悩みの邪悪さも
 夜風がどこかにさらってしまい
 すべては 始めからありもしなかったことなのだと
 そうささやかれた気分になったっけ


 ありもしなかったこと
 僕はいつも ありもしないということに憧れていた


 少し時間をさかのぼって
 僕がまだ 風と光に包まれていたころ
 包まれていたからこそ その2つの特性に気付かなかったころ
 自転車で 古い城郭を訪ねたことがあった
 いかめしい防壁や堀の数々は
 年月がその角を丸め
 その意志を挫き
 あらゆる種子をふりまいて
 ついには
 静けさと緑で何もかもを占領してみせた
 城主が腰を下ろしていたはずの
 四角い盆のような形をした本丸でさえ
 6本の巨木がたたずんで
 そこはすっかり 神様のすみかへと作り変えられていた
 頭上高くを覆った木の葉の屋根をすり抜けて
 光は躍っていた まだらににじんで 中空に筋道を残して
 冬を越えた枯葉を押し分けて
 道がまっすぐに伸びていた
 もぐら穴をよけながら 僕は足を進め
 石柱がたたずむ神殿の奥底で
 記された碑文を見上げた
 山脈と空気に問いかけるその歌は
 何もかもいっさいを夢に返して
 すべてはありもしなかったことだと
 そう理解した僕自身すらも
 ありもしなかった“もの”なのだと
 はっきり告げていた
 僕は耐えられずに背を向けた
 屋根を越えた向こうには光が降り注ぐばかりで
 自転車が
 巨木に比べるとおもちゃみたいに小さな自転車が
 銀色のフレームに太陽を落とし込んでいた


 語りかける者は誰もいなくて
 僕を誘い込むものも何ひとつなかったけれど
 神様はそこにいた
 神様は自転車の小ささの中にいた


 男はまちがっていた
 神仏はいのりのなかにはいない
 神仏はありもせず そして
 すべてはありもしなかったことだと
 僕らが見透かしてしまった時にだけ
 小さな後姿をかいま見せるのだった


 カラスよりも多い人間の中で
 僕は確かに存在していた
 存在してしまっていた
 きっと僕はとまどっている
 自分がいることに
 自分に心があることに


 信じる人が少なくなって久しいけれど
“いる”ことや“心がある”ことは
 厄介な現実だった
 僕はときどき悩む
 悩むために悩む
 僕は問いかける
“いない”ことによって“いる”神様に問いかける


 自分の心と現実と
 動かしやすいのはどちらだろう
 現し世はなべて夢かもしれないけれど
 すべての夢はどれも
 現し世の変奏曲に過ぎないっていえるのだろうか


 ホワイトチョコモカフラペチーノを飲み終えて
 僕は席を立った
 電話はすでに切れていて
 街は静かだった
 向こうのほうの 坂の上の
 首相官邸のあるあたりに木々の茂みがあって
 そこでは 数羽のカラスが眠りについているに違いなかった
 まどろむカラスの夢に溶け入ろうと
 誰もいない歩道を 足音を忍ばせて
 僕は歩いていった


(2002年作)