ドワーフ・プラネット(一)

 八王子から橋本まで歩いてきた。約一時間半の距離だ。私にとってそれほど遠くではないけれど、なぜか左足が痛くなった。
 橋本に行って痛くなったのは足だけではなかった。これは驚くべきことだ。今日私が橋本に行った事に大層な理由なんてなくて、ただ開放されている駅ビルのホールで景色を眺めながらコーヒーを飲みつつ本でも読みたいと思っただけだ。
 だが、実際に行ってみると、そのホールで行われたことや出会った人たち、そして別れていった人たちの事で胸が詰まった。
 記憶はきっと場所に張り付くものなのだ。
 物心の付き切らない幼少期を過ごした町へわざわざ行ってみたことがある。もちろん風景は一変していて、砂利道は舗装され、平屋の壊れかけた家並みは小奇麗な住居に建て替えられていた。それでも、鉄骨でできた不細工な橋を見たり、記憶していたよりもずっと小さな集会所を眺めたりしただけで奇妙な気持ちに陥ったものだ。
 橋本でも同じことが起きた。
 しかもそれはまだ三年と経たない出来事で、成長の止まった脳髄に細部までしっかりと記憶されていることなのだ。
 夕方には薄暗くなるビルのホールで私はただベンチに座り、周囲の景色を眺めた。暮れかけの空を鉄塔と高圧電線が囲っていた。建設中のマンションが遠い山脈を視野から切り取っていた。来る途中まで頭にあったコーヒーも本も手に取らず、私はそんな景色だけを眺めていた。
 ここで一緒に時を過ごした男と女性のことを私は思い出す。そうして、自分の矮小さと独善と、人生のあらゆる局面で犯してきた情けない罪悪について思い返した。
 この記憶にはまだ決着がついていないのだ――薄暗いホールで私はそれを悟った。それに関わる人たちとは既に連絡が途絶えて久しい。今更話し合う立場にも、まして許しを請う立場にも私はなかった。
 ただ、この記憶には決着をつけねばなるまい。私にとってただ一つ記憶と戦う武器となるのは、それを語ることだ。
 これから私は一つの記憶を、それもここ数年のごく近い記憶を語ろうと思う。もちろん、ここで触れ合う人たちの中に関係者もいる。直接の関係者がこれを読む可能性だってある。それでも敢えて私はこれを書こうと思う。そうすることでしか、もはや、この記憶に決着がつかないような気がするのだ。
 ただ一つだけ、私は防衛線を張っておこうと思う。こうする権利(あるいは義務)は、作家なら誰だって持ち合わせているはずだ。

※この物語はフィクションです。実在する場所、人物、団体名などとは一切関係ありません。

 二十一世紀の最初の年、私は新聞屋で、そして東京都放送学校(通称、都放学校)メディア文学科の生徒だった――。

(続く)