緑川愛彩(あい)「海が愛したボニー・ブランシェ」

 専門学校のOB・OG勉強会で非常にお世話になった緑川愛彩(あい)先輩が、「海が愛したボニー・ブランシェ」という作品でB’s‐LOG文庫からデビューした。という風の噂を聞いたので、八王子の書店で平積みされていたのを買ってきた。緑川先輩、おめでとうございます!

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エウロパの魚

光を見たことは ある?


母さんの 甘く大きな口の中で
氷の空のうめきが聞こえた
炎の城から立ち上る無数のあぶくが
うめきの空をゆっくり泳いで
やがて ささやく声のように消えた


    ああ ここでは
    にじむ光が空を塞いでいるのだ
    俺はどこにいるのだろう
    星の聞こえない 空の下 地面の上
    他に 自分の居場所を語る言葉があ
     るか
    足取りが 記憶をなくしたようにお
     ぼつかない
    あるいは 記憶をなくすために 俺
     は
    こうして 不恰好に歩いているのか
     もしれん


母さんは 昔のことを物語る
甘く大きな口の中で
幾万の柔らかな舌を揺さぶって
火の城をめぐる古い戦いのこと
根の国へ根ざした
もう一人の母さんのこと などを
柔らかな舌の上でまどろみながら 僕は
聞くともなしに聞いていた


    ああ 土砂降りの雨が欲しい
    鈍い雷光が欲しい
    だが ここにあるのは普段の雑踏
    永久に続く世界を呪う
    無関心で憂鬱で
    飽いたうんざりした退屈した 雑踏
    どんなリズムも音階も刻まない
    無情の靴音 連中が刻むのは
    時間だけだ ゴム底の踵のように
    すり減っていく時間だけだ 俺の
    すり減っていく命だけだ


だけど 僕が本当に聞いてみたかったのは
未来のことだった
未来
火の城から泳ぎゆく無数のあぶくが
氷の空にせき止められて
やがて 大きなひとつの泡となり
空を押し上げようとする その時に
一体 何が起きるのだろう?
甘く大きな口の中で
波打つ舌に包まれて 僕は
氷の空の ひときわ大きなうめきを聞いた


    ああ 車両の窓に
    俺の血走った両目が映る
    答えのない問い掛けに引きずられて
    山手線外回りが
    がむしゃらな回転を続けている
    いつまでですか
    いつまでですか
    いつまでですか と
    その答えはごく短い
    沈黙
    あるいは
    音楽を作らない音
    瞬間と瞬間の間に横たわる
    無限に引き伸ばされた 俺の
    瞬間の断面図


その時は
光がやってくるのよ
光?
そう
地面が割れると 火が昇ってくるように
空が砕かれたときには 光が降りてくる
光を見たことは ある?
僕は 九つの尻尾を短く振った
そうね お前はまだ
口の中から出たことはなかった
あぶくが氷の空を砕き
巨大な悲鳴が地面まで揺さぶる そのときに
光は降りてくるのよ
光ってなに?
そうね それは
音に似たもの
音楽 のようなもの


    あの電話を受けるまで 俺は
    自分の心に こんなはたらきがある
     のを知らなかったのだ
    呪われた声が地球を裏返したせいで
    俺の心臓を頼りなく動かしていた
    星々の歌声も
    閉じた球の中で むなしく
    消え入るばかりになった


母さんの口の中に
とつぜん苦味が広がった
怯えたような あるいは
脅かすような 急かすような振動を
幾万の舌がいっせいに奏で始めた
光が降りてくるのよ さあ
外に出てみなさい
母さんの唇を恐る恐る飛び越えた 僕は
初めて触れる地面が まるで犬歯のように
腹をかすめていくのを感じた


ああ もう聞こえている
氷の空の断末魔を
集まりきったあぶくたちの
勝利の雄叫びを
僕ははっきりと耳にする
そして 何よりも速く
光はやってきた
その瞬間まで
光を感じる器官が自分にあるなんて 僕は
まったく 知らなかったのだ


それは火に似ていた
熱水を浴びたときの
身体を焼かれる感覚に似ていた
それは怒った母さんの吐き出す
刺激臭にも似ていた
鋭く尖らせた無数の舌が
腹を突くのに良く似ていた
自分の叫び声を抑えることを思い出し
辺りが静かになると それは
音に似ていた
音楽 のようだった


空のすべてを見届けてから
僕は振り返り そして 母さんが
地面に根を張っているのを
見た
大きな口はもう動かず
すべての舌は張り詰め
空を指していた
甘い匂いは消えてなくなり
あらゆる筋肉は固く錆びついて
置き去りにされた古い骨格たちが
無言のまま 影だけを支えていた


    音楽が聴きたかった
    かつて自分を慰めたはずの
    今は失われてしまった歌声に
    俺は限りなくあこがれるのだ
    音楽 それは
    光に似ていた
    太陽 のようだった

祖父の思い出(3)

 二月五日金曜日の未明、父から突然送られてきたメールで、祖父の死を知らされた。寝ぼけ眼で、これは夢ではないかと真剣に疑った。年が明けてから体調があまり良くない事は父から知らされていたけれど、特に大きな病気もなく、まだまだ生きていてくれそうだと勝手に思っていたのだ。

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