祖父の思い出(3)

 二月五日金曜日の未明、父から突然送られてきたメールで、祖父の死を知らされた。寝ぼけ眼で、これは夢ではないかと真剣に疑った。年が明けてから体調があまり良くない事は父から知らされていたけれど、特に大きな病気もなく、まだまだ生きていてくれそうだと勝手に思っていたのだ。


 僕はすぐに父へ電話を掛けた。電話口の父は、落ち着いた声をしていた。そして、今日中に祖父母の家に向かう準備をするよう僕に言いつけた。
 祖父母は、十数年前に小杉の家を売り、長男である伯父の一家が住んでいるマンションに移り住んでいた。伯父の部屋のすぐ上で、何かあればいつでも伯父達が駆け付けられる場所だ。父への訃報も伯父からあったのだろう。
 よく考えたら、孫たちが突然伯父一家の所へ行っても、何ができるわけでもなかった。狭いマンションで、かえって迷惑になるばかりなのは目に見えている。それに、自宅での死亡なので、検死や手続きもあるだろうし、すぐ葬儀を行えるわけもなかった。慌てて僕を現地に寄越すような必要はない。案の定、朝になってからまた電話があり、来週の後半に通夜と葬儀を行う事になった、と伝えられた。
 父は、落ち着いた声をしていたけれど、やはりどこか慌てていたのだと思う。父は本当に祖父を尊敬していたし、好きだったのだと思う。正月に帰省した時や、普段の会話の節々で、それがよく分かるのだ。

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 通夜は二月十二日金曜日に、葬儀は二月十三日土曜日に決まった。
 週末を挟んだ一週間、気持ちがどうしても落ち着かなかった。一人暮らしの身で、近くに祖父の死を共有できる人がいなくて寂しかった。
 僕は、葬儀が始まるまでの、何もなく過ごす時間が苦手だ。得意な人もいないだろう。忙しい現代の事情に合わせて週末に葬儀をずらしたりするのだろうけれど、できれば何もかも放り投げて葬儀を行って、早く皆で悲しんでしまいたい、という気持ちになる。
 普段の生活を行いながら時間を過ごしていくほかなかった。自分のやっている仕事が、下らない、無味乾燥な、どうでも良い事だという気がした。何かあってもできるだけ仕事を遂行する、といった社会的責任は勿論あるのだろうけれど、しかし僕の抱えている社会的責任なんて決して大したものではなかった。
 それでもとにかく、仕事に行ける限りは行かなければならなかった。実直な職工だった祖父は、自分が死んだことで僕が仕事をないがしろにするような事があったら、きっと悲しむだろうと思った。

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 通夜と葬儀は、横浜線沿線にある公営の斎場で催された。祖父の希望で、無宗教・音楽葬で行うという。きっと色々な人に配慮しての事だろう。
 重い雲の張った金曜日の夕方に、礼服を着て僕は部屋を出た。この週末は、とても寒くて、始終雪が降っていたような気がする。
 通夜の会場には、本当に身近な家族だけが集まっていた。僕たち父の一家と、伯父・伯母の家族だ。北海道に住む伯母は天候不順のため飛行機が飛ばなかったそうで、通夜には間に合わなかった。斎場のスタッフがときおり見に来るだけで、僕たち一族の他はほとんど誰も訪れなかった。ただ、父の会社の方が一人だけ訪れて下さった。父はしきりに恐縮していた。
 集まってしまえば、皆はそれほど悲しんでいなかった。僕も、ようやく落ち着いた気分になった。ただ祖母だけが、棺の近くの席で泣いていた。伯父や伯母や父が、そんな祖母の背中を交代でさすっていた。
 やがて時間になって、みんなは席に着き、喪主である伯父が司会を務めた。会場には祖父の描いた油絵が二枚飾られ、生前好きだったらしいフォスターの音楽が流された。
 伯父が一通りの挨拶を終えると、一人ずつ席を立ち、用意されていた花を祭壇に捧げた。祖母は泣いていて一人で立てず、伯父夫婦に支えられながらどうにか献花を済ませた。
 みんな、花を捧げた後、祭壇の前で祖父の冥福を祈った。手を合わせるなり十字を切るなり、それぞれの方法で祈れば良いのだろう、と思った。僕は仏教徒でもキリスト教徒でもなかったので、祖父に合わせてキリスト教の真似をする事にした。手を組んで、いつかキリスト教徒の人が口にしていたような文句を思い浮かべる。神様、どうか天にお召しになった祖父のことを特別に思ってくださいますように――。
 通夜の後、会場のすぐ隣にある待合室のような場所で、従姉が買ってきてくれた料理をみんなで食べた。近親者だけの質素な集まりだった。客観的に見ればなんとも寂しい式かもしれないけれど、祖父らしいな、とも思った。

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 翌日の朝から葬儀だった。
 粉雪が降っていて、横浜線の窓から見える木々が薄く雪をかぶっていた。最寄り駅からタクシーに乗って斎場に向かう。途中、タクシーの運転手さんが、こんな日に大変ですね、と声を掛けてくれた。北海道から来る親族もいて、飛行機が飛ばなくて大変だったらしい、という話をすると、運転手さんにも似たような北海道在住の親族がいて、やはり苦労してこちらに来ていた、という話になった。
 会場に着くと、そんな世間話に出ていた北海道の伯母と従弟が出迎えてくれた。従弟は甥と言ってもおかしくないくらい年が離れている。まだ大きすぎる中学生の制服がなんだか可愛かった。日本橋の従姉妹たちと、とにかく式には間に合って良かった、と話をした。
 今日は葬儀会社の人間が司会に入り、式を執り行うという事だった。やはり無宗教で、祖父の息子たちが一人ずつ祖父との思い出をスピーチし、みんなでまた献花をするという、それだけの儀式だった。
 スピーチは、日本橋に住んでいる伯母から始まった。二十年ほど前、祖父の書いた詩が雑誌に掲載された事があり、その作品の朗読と、祖父が喜んでいたという話だった。伯母が持ち込んだその詩誌は、実は僕も応募した事があったものだった。しかし、僕の作品はいまだに掲載されていない。
 祖父の詩は「春の感傷」という題で、「また来る春を打ち落とせ」という言葉で始まる、どこかおどろおどろしい春の訪れを描いた詩だった。季節の繰り返しに対する畏怖や戸惑いが強く感じられる、紛れもない現代詩だった。また、僕が書きたいスタイルの詩でもあった。
 二十年前、と言っても、祖父は既に七十を越していたはずだし、世の中は90年代だった。そんな歳でその時代に詩を書いて評価されるというのは、ものすごい事だと思う。
 現代を生きている僕は何をやっているのだろう、と自分が情けなく思った。同時に、祖父の詩心を少しでも受け継ごう、とも思った。一族で他に詩なんか書いている人間はいないだろう。
 その次は父の番だった。自分が末っ子で祖父の愛を独り占めできたこと、それでかえって反発心を抱いた頃もあったこと、などを話した。それから、飾られている絵を指し示した。花瓶と桃を描いた静物画と、教会を描いた風景画だ。
 静物画は、油絵を始めて最初の頃に描いたもので、風景画は、それから十年ほど後に描かれたものらしい。祖父が絵を始めたのは六十を過ぎた頃だったそうだ。作品を見ると、そんな高齢から始めたのに、画力が大きく進歩している事が分かる。事実、祖父は市の展覧会などで幾つか賞を貰っているらしい。
 それから、北海道に住む伯母が、牧場主の夫の元へ嫁ぐ時に祖父から送られた手紙を読み上げた。それは、嫁ぎ先の旦那さんを賞賛する言葉と、娘への自然な愛情が感じられる手紙だった。
 祖父は、伯母にはごく普通の家庭生活を送って欲しいと思っていたらしい。だけど、伯母は動物好きが高じて酪農の世界に入り、遂には牧場主と結婚してしまった。そんな伯母は、祖父の意に沿わなかった娘なのだけれど、それでもこんな心のこもった手紙を送ってくれて感謝している、と話した。
 伯母は北海道で大変な苦労をしている。僕は実は高校生の頃、ひと夏だけ働かせてもらった事があって、伯母の生活に少しだけ触れることができた。最寄の市街地まで二十キロという場所で、動物を相手に朝から晩まで、休日もろくに取らずに働いている。さらに子供を育て、地域の人たちとの付き合いもこなさなければならない。それに夏はまだ楽で、冬になると極寒と豪雪のため「三十メートルで遭難する」と言われるような環境になってしまう。
 そんな大変な生活の中でも、祖父からの手紙はずっと励みになっていたそうだ。
 最後に話をしたのは、長男である伯父だった。戦争を挟んで、ずっと会社勤めをしながら自分たちを育ててくれた祖父の事を、言葉を詰まらせながら語った。
 何か別にやりたい事があったのかもしれない。決して勝ち組と言えない生活を長く続けていた。だけど、こうしてたくさんの家族に囲まれて幸せだったのではないか。
 伯父はIT系のフリーライターで、ビジネスの最前線で自分独りの腕を頼りに生活を立てている人だ。そういう人から見れば、祖父の人生はとても地味なものかもしれない。
 それでも、僕にはむしろ、祖父の人生こそ本当に幸福な望ましいものだと思えるのだ。できれば僕も、祖父のように生きてみたい。それは、とても偉大で困難な事だと思う。

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 式が終わって、祖父の遺体を火葬場に運ぶ時が来た。棺の中へみんなで手紙や花や好物のバナナやバレンタイン・チョコレートを入れた。
 祖父はとてもきれいな顔をしていたけれど、やはり生きていた頃の方が美しかった気がする。祖父のもっとも美しい部分は、既に天に昇っていたに違いない。
 公営の斎場のためか、火葬は淡々としたものだった。骨を拾うのは、他の人の葬儀と同じように鉄の箸で行われた。九十を超えていたにしては、とても量が多くてしっかりした骨に思えた。
 骨壷は、伯父一家の従兄が抱えた。僕の父が遺影を持ち、みんなはその後に続いて斎場を出た。
 墓は、何ヶ月か後で、カトリック式の墓地に建てられるのだという。骨を砕いて筒に入れ、簡素な墓の下に埋めるそうだ。墓石も置かないかもしれない。本当に何も置かない場合もあって、そうすると、墓の位置などほとんど分からなくなってしまう。
 だけど、それでも良い気がする。祖父の墓は、みんなの思い出の中にこそあるのだと思った。

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 葬儀は、午後の早い時間に終わってしまった。帰り道、最寄駅まで妹が車で送ってくれた。駅からは一人で電車に乗って帰った。
 雪は相変わらず降っていて、車窓の外の景色が白く眩しかった。乗客の少ない横浜線の車両が、僕を日常に向かってゆっくりと運んでいった。

(終)