「瀧口修造の光跡1『美というもの』」レポート

 六月二十九日から七月十一日にかけて、いつもの森岡書店で「瀧口修造の光跡1『美というもの』」が催された。タイトルの通り、瀧口修造の造形作品を展示した会場の中で、詩の朗読を行ったり、講演の録音を再生したり、研究家のトークが行われた。


 僕は朗読会と最後のトークに出席してきた。録音講演のイベントは人数がいっぱいで出られなかったけれど、トークの日に再演が行われたおかげで、一通りを聴く事はできた。
 録音された講演は、現在の富山県富山高校で一九六二年に行われたものだ。旧制では富山中学であり、瀧口修造の母校に当たるらしい。四十年ぶりに母校を訪れて、色々と感慨があったのだと思う。スピーカーから聞こえてくる声には、そんな懐かしさのようなものがにじんでいた。
 瀧口修造は「美術評論家」であり、シュルレアリズムやモダン・アートの紹介者であり、詩人や画家でもあった。
 こうやって肩書きだけを並べると、いかにも難解で精神的な世界を生きてきた人のように思える。だけど、講演で聞く生の声は、素朴で実直で、飾りや気取りとはまったく無縁の、本当に謙虚な声だった。聞いてすぐ「ああ、この人は信頼の置ける人なんだな」という事が分かる、とても穏やかで優しい声だ。
 自分の生い立ちから瀧口修造は語り始める。医者の家に生まれて、医者になるように両親から教育されていた。だが、両親が夭逝し、それから「やはり、自分の思ったところへ進んだほうがいい。そのことが結局、親孝行にもなるのではないか」と、医科大学の受験を捨てて、慶應義塾大学に入る。
 だが、大学での教育にも幻滅を感じてしまう。追い討ちを掛けるように関東大震災があり、それを潮に大学を辞めてしまった。
 それから北海道の小樽へ渡って、小学校の教師になろうとする。しかし、親族に泣きつかれ、教師の道もうまく行かず、また大学に戻ることになる。
「なんとか卒業すれば、中学校の英語の先生ができるだろう」と舞い戻った大学で、西脇順三郎に出会う。そして「世界の色々な芸術の動きというものを学びました」
 やがてシュルレアリスムに出会う。「つまり、「自分というもの投げ出す」ということですね。そういう動機をそのとき初めて知ったわけです。それから、とにかく私なりに、できるだけ自分というものを燃焼させる。無茶苦茶といえば無茶苦茶です」
 そうして、シュルレアリスムの開祖アンドレ・ブルトンの著書を翻訳したり、映画会社に努めて激務で身体を壊した後、美術関連の記事を書いているうちに「『美術評論家』というレッテルがいつのまにか付いてしまっていました」
 やがて、世界の動向がきな臭くなり、ファシズムの嵐がやってくる。戦争が始まり、瀧口修造は危険思想家ということで特高に捕まってしまう。(実際には、瀧口修造は常に政治から距離を置いていたらしい)
 講演では語られず、土渕信彦さんのトークで解説された事だが、瀧口修造はそんな状況の中で「シュルレアリスム感の瓦解」に見舞われ、ピカソに傾倒した。だが、戦後しばらく経ってまたシュルレアリスムとのよりを戻し、アンドレ・ブルトンとの「最初の再会」を果たす。それから、自ら造形作品の制作を始めるようになった。講演が行われたのは、ちょうどその頃だ。
 講演を聴いていると、瀧口修造が稲妻のように折れ曲がった人生を歩んできたのが良く分かる。
「とにかく私なりに、できるだけ自分というものを燃焼させる」
 本当にこの言葉の通りに生きてきたのだろうと思った。今の人間が軽薄に口にする「ありのままの自分」や「自分探し」とは全然違う、目指すものも見えず認めてくれる人もいない中での、雷光のような真摯な運動だ。
 何かを積み上げてそれで自分を守っていこうという気持ちがまるでなくて、自分をどう使っていくか、という事をずっと念頭に置いてきたのだと思う。
「『何か自分の体験で、自分から本当にそう思った、感じた、感動した』ということです。それが『美』の始まりであるし、おそらくは最後のものであるかもしれないと思うのです。最後のものかは私にもまだわかりませんけれども、それが一番大切なことではないかと思います」
 何度も繰り返し強調されるこの言葉には、自分の感性を信じて実際に生きてきた人間の達観が込められているのだと思う。


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 それから、岡安圭子さんが、瀧口修造の詩の朗読を行った。
 今回はいつもとは違って、瀧口修造の研究をされている土渕信彦さんの解説を朗読の間に挟む、という趣向が取られた。詩の隠された意味や他の詩との関連が明らかになって、興味深かった。
 詩の朗読は、年代順に何点かをピックアップして行われた。最初に読まれたのは、初期の詩である「LINES」だ。

赤イウロコノ魚ガ巧ミニ衝突スル街路ニ
顔ヲヒソマセテイルト
精密ナ息切レノ内部デ
花ガ重タク
虎ハ離レル

 タイトルの「LINES」とはそのまま詩の行のことだろう、と土渕さんは解説された。具体的な意味や情景から離れて、言語の客体性に焦点を当てて書かれているのだという。
 客体性とは、何かの意味やメッセージを担っていない物体ということらしい。言葉を意味から切り離して物体とみなし、それを自由に組み合わせて詩を作る。すると、今まで想像も付かなかった、現実にはありえないようなイメージが湧き出てくる。
 そういった客体性の追求は「地球創造説」という作品でピークを迎え、それから後の作品では逆に主体的なイメージが取り入れられていく。タイトルにそれが現れていて、前述の「LINES」や「amphibia」(両性類?)・「断片」といった抽象的なものから「クレオパトラの娘の悪事」「花籠に充満せる人間の死」といった具象的なものになっている。
 次に朗読されたのは、その「花籠に充満せる人間の死」だった。

 人間がいるために花籠が曲がる。 揺れる。破裂する。その日光を浴びて透明なパイプを握って煙を吹く。 私の指の水平線に美神が臍を出して泳ぐ。 おお否認された白梅のほうを向けよ人間の鮮明な心臓の見える人間の青い縞を見たまえ。

 この作品には、潜水夫・鰐・潜望鏡などの水に潜るものが多く出てくる。海上と海中・地上と水中を繋ぐといった二面性に惹かれていたのだという。プラトンイデア論の影響がそこにはあって、影の世界に過ぎない現実と、真実であるイデアの世界とを結ぶものとしてイメージが託されている。
 次に朗読された「DOCUMENTS D'OISEAUX 鳥たちの記録」には、地上と空=イデア界を繋ぐ存在として鳥が出てくる。また「MIROIR DE MIROIR 鏡の鏡」では、タイトルの通り二面性を鏡が担っている。
 次の「絶対への接吻」という詩は、言語を追求する作品として最後に書かれたものだった。つまり、詩に対する別れの投げキッスをしているのだという。

彼女の判断は時間のような痕跡をぼくの唇の上に残してゆく。 なぜそれが恋であったのか? 青い襟の支那人が扉を叩いたとき、単純に無名の無知が僕の指を引っぱった。 すべては氾濫していた。 すべては歌っていた。 無上の歓喜は未踏地の茶殻の上で夜光虫のように光っていた……

 その後の作品では、作風が大きく変わる。それまでのストイックな言葉の洪水がさっと引いていって、急にシンプルになる。岡安さんは「地上の星」という作品を朗読した。

鳥 千の鳥たちは
眼を閉じ眼を開く
鳥たちは
樹木のあいだにくるしむ

眞紅の鳥と眞紅の星は闘い
ぼくの皮膚を傷つける
ぼくの声は裂けるだろう
ぼくは発狂する
ぼくは熟睡する。

 全体を通して、「詩的実験」の名前のとおり、無数の言葉を集めてかき混ぜる魔術的な実験という雰囲気が感じられた。その実験の最中に言葉そのものが意思を持って動き始めたような生々しさがある。
 朗読の間に挟まれた土渕さんの解説のおかげで、詩がどんな考えや影響の元に書かれたのか、知ることができた。初めて触れるには難解な詩が多い中で、詩を味わうための心強い道案内となった。


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 イベントの最後を飾ったのは、研究者である土渕信彦さんのトークだった。土渕さん自身の瀧口修造との出会いや、瀧口修造の人生の軌跡を、ごく身近な口調で語ってくださった。
 土渕さん自身は、高校の頃に西脇順三郎の詩に触れたのがきっかけで瀧口修造を知り、その詩や思想にのめり込んでいったそうだ。
 会社員として働きながらも瀧口修造に関するイベントに幾つも関わり、文献を集めていた。数年前に会社を退職して大学に入り直し、研究者として独立したのだという。
 それから、瀧口修造の人生を、思想や政治や、瀧口自身が経験した転機を中心に解説された。
 瀧口修造は戦前・戦後をまたいで活躍していたので、政治中立を堅持しながらも、当時の共産主義ファシズムのあおりを何度も受けてきた人だった。講演録音でもその事がいくつか語られている。
 さらに、シュルレアリスムから一時期離れていたこと、ブルトンとの「最初の再会」によりシュルレアリスムと和解し、それから造形作品を作り始めたことなど、講演では語られなかった点も詳しく説明された。
 戦前から戦後という激動に揉まれながら、芸術に、自分の感じる美にしがみついて離さなかった。物語のトリックスターのように世間を駆け抜け、いくつも転機を乗り越えて、やがて大家として認められる。そんな瀧口修造の強さが、単なる偉大さとしてだけでなく、ごく親近感のあるものとして感じられた。
 戦争が終わって、ブルトンとの再会を果たして、そして造形作品を作り始めた時は、とても嬉しかったのだと思う。森岡書店に展示された土渕さんのコレクションは、ちょうどその時期の作品だそうだ。


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朗読を担当された岡安圭子さんのBlogはこちら。

http://okayasukeiko.chicappa.jp/blog/