桜について

 先週の土曜日に、高校の同級生と一緒に都内をさまよい歩いた。道中、満開を迎えていた桜の写真を何枚か撮った。



 ひしめく花々がすべて徒花だということに思い当たると、愕然としてしまう。各地に植えられているソメイヨシノはすべて接木で殖やしたもので、種から育ったわけではない。また、花が結ぶ実もほとんど種にならず、芽を吹かないという。ひたすら華やかさを求めて品種改良を重ねた結果、そうなってしまったのだと思う。
 これほど華々しく咲き誇っているものが、ある意味ですべて無駄であり、徒花なのだった。
 種を生まない桜は、ニセモノの花、バーチャルな花とも言えるだろう。そもそもリアルを生き抜く生命力を持った花ではない。だが、リアルから抜け落ちた華やかさを人間に認められて、それだけを頼りに生き延びている。生命の遺伝子として、ではなく、華やかさという模倣子(ミーム)として、ソメイヨシノは日本全土に分布しているのだ。
 徒花を見上げて思う。
 少子化や非婚化が進み続ける僕たちも、ソメイヨシノと同じように徒花ではないか?
 人間が考え、志向し、欲する何もかもが、もはや生身を超えてしまっているのではないか? あまりに複雑な芸術と科学、制御不能な経済、生身の制約を貪欲に突破し続ける無数の価値観……。それらに振り回されるあまり、僕たちはもう昔のように殖えることができなくなりつつある。
 華やかさを求めるあまり種を失くしたソメイヨシノのように、人間の価値観や思想や芸術が遺伝のシステムから抜け出したとき、生身の時代は本当に終わりを告げるだろう。そのとき、人間はもはや子供を作らず、もっと重要な何事かに精を出すのだろう――桜が咲き誇るように、華々しい徒花となるだろう。
 そのとき接木してくれる何者かを、僕たちは持っているのだろうか。僕たちを愛で、存続させてくれる何者かが、果たしているだろうか?

(霊岸橋から望む井上ビル)