アンナ・感情について

 トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読んだ。
 愛情に突き動かされて夫を捨てたアンナと、情夫である魅力的な青年ヴロンスキー。アンナのためヴロンスキーに失恋した清らかな女性であるキチイと、ヴロンスキーのため一度はキチイに振られた不器用で思索的な田舎貴族のリョーヴィン。この二組の夫婦(?)を中心とした愛憎の物語だ。
 この小説で、どうしてもアンナに感情移入ができなかった。夫を捨てたアンナも誘惑したヴロンスキーも決して悪役というわけではなくて、善良なところも魅力的なところも多く備えた人物だという事は良く分かる。それでも、アンナの気持ちになかなか共感できなかった。それは僕が男であるせいなのかもしれないし、トルストイが狙った効果なのかもしれない。女性はどんな感想を抱くのか気になる。
 アンナは本来の夫であるカレーニンとの間に息子をもうけている。しかしヴロンスキーと不倫を重ねるうちに娘を身ごもってしまい、やがて生まれた娘を連れてヴロンスキーと駆け落ちする。カレーニンの神掛かった寛大さにより三人は平穏な生活を手に入れるが、息子だけはアンナの手に渡されない。
 アンナは引き離された息子に強い愛情を感じて、カレーニンの屋敷へ忍び込んだりする。反面、ヴロンスキーとの間にできた娘には愛情を感じられず、乳母に任せ切りにしてしまう。この感情がわからない。第一子はそれだけ特別な存在なのか。それとも、引き離されているからこそ愛情を抱いてしまうのか。目の前にいる娘に対しては、引き離されて理想化された息子と無意識のうちに比べてしまっているのか。そういう事が女性にはあるのだろうか。
 アンナは盛んに「愛情」を口にする。私は彼を愛している・私は彼を愛していない・彼は私を愛している・彼は私を愛していない、などなど。それで物凄く悩む。もはや、アンナが生きているというよりも、彼女の愛情が生きていると言った方が正確なくらいだ。自分の事ばかりでなく、ヴロンスキーの中にも自分と同じような愛情を見ようとして、それが自分に向いているかを常に気に掛けている。これもまた、ヴロンスキー自身というよりも彼の愛情を凝視しているように思える。
 自分の感情に突き動かされ、他人の感情だけを求める生き方にはどこか誤りがあるのだ。だからアンナは破滅せざるを得なかった。他人はどこまでも他人で、その感情を完全に掌握することは不可能だ。そして、他人の感情を求め続ける自分もまた掌握することはできないことになる。
 アンナ達と対比されるリョーヴィンとキチイは(アンナ達と比べれば)平凡で健全な夫婦となる。平凡な夫婦らしくいさかいもすれ違いも多く経験するが、アンナ達と違ってそれで破滅的な道を辿ることはない。それはなぜだろうか。

「彼(リョーヴィン)は、キチイが自分にとって身近な存在であるばかりでなく、今ではもうどこまでが彼女で、どこまでが自分なのかわからないということを理解したのであった」

 これはアンナ達に比べれば長閑なおままごとのような箇所だけれど、僕はこのリョーヴィンの悟りが美しいと思った。もはや自分や相手が愛したり愛されたりするという域を超えている。自分や相手という垣根すら越えて、二人が共感している。自分を忘れて相手の感情を感じているリョーヴィンは本当に美しいと思った。
 感情はもちろん大切なものだし、馬鹿にできないものだ。だけどきっと、自分の感情=自分ではない。自分の感情に忠実すぎると自分を失う。むしろ、他人の感情に仕えられるようになれば、自分自身もまた自分に仕えることになるのかもしれない。
 男の僕は大体以上のように考えたけれど、女性の視点から読むともっと違う解釈になるのだろうか。女性の感情については正直言って未知の部分が多過ぎる。僕は、アンナの生は虚偽でキチイは真実だと思った。もしかしたら、アンナの生こそ真実でキチイは虚偽だ、という読み方もできるのかもしれない――。

アンナ・カレーニナ(上) (新潮文庫)
アンナ・カレーニナ(中) (新潮文庫)
アンナ・カレーニナ(下) (新潮文庫)