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七月四日 昼〜

 僕はやはり車椅子で押されていった。
(外見上)健康そうな普段着の青年が若い女性の看護師に運ばれている、という図式はやはり後ろめたかった。しかし今は実際歩くと辛いので、甘えてしまって良いのだと考える事にした。
 朝からずっと僕を運んでくれていたのは、秋子さん(仮名)という看護師だった。胸の名札に書いてあった名前だけを覚えている。顔をマスクで覆っていてよく分からなかったけれど、恐らく僕より少し年上だ。明るくてハキハキしていて、患者に安心感を与えられる優秀な看護師だと感じた。入院中に接した看護師の中で、最も看護師らしい人だったと思う。(別に看護師らしくない看護師が悪いというわけじゃない。念のため)
 ちなみに、ここの病院の看護師は白衣を着ていない。ナースキャップも被っていない。ジャージのような生地の水色の服(しかもズボン)を着て、ライトブルーのエプロンをしている。顔には必ずマスクを付ける。足元は運動靴だ。
 ひょっとしたら、今どきの看護師は白衣なんて着ていないのかもしれない。病院とはあまり縁がないので良く分からない。でもちょっと考えれば、白衣なんて汚れが目立って大変だろうし、スカートよりズボンの方が動きやすいのは言うまでもない。マスクも院内感染のことを考えると欠かせない。
 そんな現代的で実用的な看護師の格好をした秋子さんによって、僕は処置室へと運ばれた。「処置室」という部屋の名前は初耳だった。何だか痛そうな部屋だなと思った。
 処置室に入ってみると、歯医者にあるような大型の椅子やカーテンで仕切られた小部屋が整然と並んでいた。大きさは会議室一つ分くらいの広さがある。患者の中年女性が椅子に座っており、何か処置されているらしかった。
 僕は小部屋の一つに運び込まれ、ベッドの上に移った。秋子さんがビニール袋に入ったパジャマを持ってきて、これに着換えて欲しいと言う。レンタルのパジャマで一日二百十円(税込?)だそうだ。ちゃんと料金を取るんだな、と思いながら着換えた。
 パジャマに着換え終り、ベッドに横になった。ワゴンで薬品類が運び込まれ、左腕にまず点滴を打たれた。それから先ほど診察してくれた北川先生(仮名)が現われて、秋子さんに指示を出しながら処置の準備を始める。僕はパジャマの上着を脱ぎ、左胸に穴を開けるため右を下にして寝転がった。
「消毒しますね」と秋子さんが言い、胸から腋の下に掛けて綿棒で何度も消毒液を塗られた。それが一通り済むと、分厚い青紙で胴体と顔が覆われる。
「麻酔を効きやすくするために、ぼんやりするお薬を入れますね」
 秋子さんがそう言って新しい点滴薬をチューブに繋いだ。僕もなるべくならぼんやりした状態であまり痛くならずに済ませたかったので、積極的に目をつむったりした。やがて眠気を感じるようになった。
「では今から局部麻酔を行ないますね。少しチクッとします」
 北川先生がそう言いながら僕の胸に針を刺した。一度だけではなく、三箇所くらいに針を刺したようだ。
「これ、痛いですか?」
 針で突付いてくる。実際痛かったので痛いと伝えた。するとまた一箇所に麻酔を打った。
 やがて針の感触は消えた。
「では今から穴を開けてチューブを通します」
 左の脇の下を押されている感触がした。パチパチと何かを止めたかと思うと、次に何かが詰め込まれるような感覚があった。
「痛かったら言ってください」
 しばらくは圧迫感だけがあって、痛みはなかった。そのうち、皮膚のかなり深いところで何かがニュッと動くような痛みがあった。
「あ、今ちょっと痛かったです」
 それ程痛そうな様子はなかったので処置はそのまま続けられた。
「うまくいってますよ」
 先生が僕に言い聞かせる。
 皮膚を締め付けるような感触がして、ガーゼが何枚も当てられるのが分かった。やがて胴体を覆っていた紙が取り払われた。
「終わりました。お疲れ様です」
 僕は礼を言って身体を起こした。ワゴンの上に、血と垢のようなもので汚れたガーゼがあった。そして僕の左脇下から太さ二センチくらいの透明なチューブが伸びていた。根元は包帯とテープに隠れて見えない。
 チューブの先には液体の入った透明なポリタンクが繋がっていた。呼吸のたびに中の液体(恐らくただの水)が上下した。ポリタンクは点滴バーの下のほうへナイロンの袋に入れて提げた。下のほうに置いておかないと空気が外に出ていかないらしい。
 心なしか呼吸が楽になったように感じた。空気の出口ができたので、肺がまた膨らめるようになったのだろう。僕はベッドから降りて車椅子に戻る。
「ではこれから病室の方へ行きますね」
 秋子さんがまた車椅子を押してくれた。
 薄暗い廊下を抜け、エレベーターに乗って病室に向かう。七階の角にある部屋に僕は運ばれた。窓際の奥まった場所にあり、戸棚やテレビ台やベッドが狭い面積に詰め込まれていた。ベッドは電動で、高さと角度が調整できる物だった。戸棚やテレビ台は明るい木目調で統一されていた。
 僕がベッドに移ると、秋子さんはコントローラーで高さを上げた。機械音がしてゆっくり寝台が持ち上がっていく。恐ろしく緩慢な金斗雲に乗った気分だった。それからベッドサイドの柵も立てた。落ちると危ないので、とのことだ。胸のチューブは柵の間を通した。トイレなどで降りるときはナースコールで看護師を呼んで欲しいと言われた。
 秋子さんが病室のカーテンを引いて他所に行ってしまうと、ようやく静かな時間がやってきた。
 辺りからはベッドのきしる音が時々聞こえてくるだけだった。仰向けに寝転がると、穴を開けたばかりの胸がうずく。僕は本を持ってきていなかったのを後悔した。何もすることがない。テレビは置いてあったけれどカード式で、まずカードを入手する必要があった。また、ベッドの左後方にあるので、左側に管をつけている僕には見づらい。入院中僕はほとんどテレビを見なかった。
 しばらくするとまた秋子さんがやってきて、昼食を運んで来てくれた。
「ようやくご飯にありつけました」
 と僕は笑った。朝から何も食べていないので空腹だったのだ。肺気胸は食欲にまったく影響しない。以前救急車で運ばれたときも、救急病棟で普通に空腹になって困った。
 昼食を食べ終わってまたぼんやりしていると、ヘルパーがやってきて食器を下げていった。
 病棟にいる間は、ヘルパーと看護師にそれぞれお世話になった。ヘルパーと看護師の違いは正確には良く分からないけれど、見た目には服装が違う。ヘルパーはチェック模様のエプロンを着けている。看護師は先述の通り無地のライトブルーのエプロンだ。仕事もそれぞれ役割分担があるようだった。恐らく、点滴や投薬などの医療行為をできるのが看護師で、その他の掃除や食事といった生活面を担当するのがヘルパーなのだと思う。
 やがて秋子さんがもう一人の看護師を伴って現れた。もう一人の看護師は随分若い人だった。明らかに僕より年下で、二十歳くらいに見えた。癖のある黒い髪を後ろで束ねていて、細い首が目立っていた。どこかおっとりとした雰囲気があって、大きいけれど物静かな目がぼんやり僕を眺めていた。
「看護師交代しますね」
 秋子さんがそう言った。僕と新任の看護師はお互いに「よろしくお願いします」と挨拶をした。名札には、水瀬さん(仮名)と書いてあった。名札には写真が付いていて、リクルートスーツ姿の水瀬さんが写っていた。名札の上には小さな銀色の懐中時計がぶら下がっていて、写真のすぐ横で揺れながら時間を刻んでいた。
「お胸の管を見せていただけますか?」
 と水瀬さんは言った。やはり声もおっとりしていた。明るくハキハキした秋子さんに比べると、控えめで初々しい感じがした。名札に「2008年3月31日発行」とあったので、本当にまだ新人だったのかもしれない。
 個人的には、水瀬さんのような女の子を高校でよく見かけたので、何だか親近感が湧いた。僕の通っていた高校は家政関連の授業もあったりして、どちらかというと地味で控え目だけどしっかりしている女の子が多かった気がする。看護師になるような人と少し重なっているところがあるのかもしれない。
 僕はパジャマをたくし上げてチューブを見せた。水瀬さんは小さな手でチューブを確かめ、テープが貼ってある辺りをぺたぺたと触った。秋子さんは水瀬さんの後ろに立って、点滴やポリタンクを指し示した。どこに何がついているかの引継ぎだな、と思った。
 一通り引継ぎが終わると、秋子さんと水瀬さんは去っていった。