7/3(一)

七月三日 十八時三十分〜

 トラブルの対応も一段落していて、落ち着いた気分で帰れそうだった。定時に僕は席を立ち、パソコンの電源を落として大きく伸びをした。
 鞄を手に取ったとき、左胸にかすかな痛みが生じているのに気付いた。心臓よりやや上の肋骨の隙間に痛みはあった。指先で押さえられる程度の狭い範囲での痛みだ。
 歩き始めると今度は喉の方も痛くなってきた。喉の痛みというより、圧迫感と言った方が的を射ているかもしれない。喉の左下にピンポン玉を埋め込まれたような息苦しさがした。
 廊下を歩いて階段を降りているうちに、圧迫感は徐々に強くなり、胸の痛みも広がってきた。また気胸だったら困るなあ、と僕は呑気に思った。息苦しさも段々と増してきた。大きく息が吸えず、小刻みに空気を出し入れすることしかできなくなった。
 やがて、左胸に筋肉痛のような痛みが走るようになった。歩いているときにはどんどん悪化し、立ち止まると少し良くなる。これは、以前の気胸の時とそっくりな症状だった。ただし、今回の方がかなり辛い。喉は相変わらず圧迫されていたし、息苦しさは立ち止まっても改善されない。
 呼吸感覚も歩幅も普段の半分になっていたと思う。視野や意識は特に乱れなかったけれど、身体は火照り始めていた。僕は身体の左側を引きずるように歩いた。とにかく歩くことはできた。
 もはや気胸は疑いようがなかった。だけど、もしかしたら、明日になったら、治っているかもしれない。そうまで行かなくとも、少しは良くなっているかもしれない。そんな期待がまだあった。以前の気胸も数日安静にしていたら治ってしまったし、特に症状を意識しないでいられた日々もあった。とにかく明日になればどうにかなっているかもしれない。そう自分に言い聞かせて足を動かした。意識もはっきりしているし、息苦しさも今以上に悪くはならないようだ。ただ、良くなる兆候も全く見当たらない。
 職場に近い定食屋に入って塩鯖定食の食券を買った。食欲はあり、食べることもできた。それに、座っているとだいぶ楽だった。酸素消費量が少なくなれば楽になるようだ。明日はとにかく仕事を休んで病院に行こう、そう決心した。トラブル対応の後処理がまだ心配だったけれど、こればかりは仕方がない。
 それからまた身体を不恰好に引きずって駅に向かい、電車に乗り込んだ。身体を動かしていなければ苦痛はどうにか耐えられそうだった。前に救急車に乗ってしまったときのような気持ち悪さや立ちくらみはなかった。あの時は、気胸というより単なる体調不良だったのだろう。今回は救急のお世話になりたくなかった。今の調子なら大丈夫だろう、と僕は判断した。
 明瞭な意識を保ったままどうにか八王子に辿り着いた。改札を抜けて家へと歩き出す。最初の頃は胸痛も落ち着いていたが、歩いている間にどんどん悪くなった。息苦しさもそれに比例して強くなった。家まで残り三分の一ほどのところで歩けなくなり、立ち止まってしまう。呼吸を落ち着けて、胸痛が少しでも収まるのを待つ。そしてまたちょっとずつ歩く。それを三回くらい繰り返した。
 どうにか部屋について、とにかくスーツを脱いでベッドに倒れこんだ。左側を上にして横になるとだいぶ楽だった。喉の圧迫感も消えた。だが、胸痛が収まったのを見計らって起き上がると、すぐに喉の圧迫感が戻ってきた。やはり空気が胸の内側に溜まっているらしい。身体を起こすと空気が上へ向かい、喉を圧迫するのだろう。
 ノートパソコンの電源を入れてメールチェックやmixiのチェックを行なった。そのくらいの意識と元気はまだ残されていた。
 そうしているうちに、母から突然メールがあった。父の今後についての不安を呟いたメールだった。そしていつものように健康を気遣う言葉が入っていた。
 残念ながら僕は全然健康ではなくなってしまっていたので、その旨を書いて返信した。そして、診断次第では入院するかもしれない、どうも入院しそうだ、ということをメールで告げた。しかし、何か虫の報せでもあったのか母よ……。
 明日とにかく医者の診察を受けることは確定していた。それで、汚い身体で医者に行くのが憚られ、とにかくシャワーだけでも浴びようと思い、バスルームに入った。
 バスルームで身体を鏡に映して見れば、どうも左胸が少し膨らんでいるように見えた。触ってみると右胸より柔らかい。これは間違いなく空気だな、と思った。シャワーをさっと浴び、またベッドに倒れ込む。
 布団に包まると、身体が熱を帯びているのがよく分かった。肺気胸で発熱するという話はあまり聞いたことがない。酸素不足で身体が混乱しているのかもしれないな、と僕は思った。
 息苦しさでなかなか眠れなかった。それに、眠るともう二度と起きなくなっていそうで怖かった。通常は命に別状のない気胸だけど、実は緊張性気胸という危険な症状の時もあって、その場合は心臓が止まって死んでしまうこともある。それになったら困るなあ、と思いながらも、僕はとにかく眠ってしまおうと思った。もし緊張性だったとしたら、多分もうなってしまっているはずだ。そう言い聞かせた。
 寝汗に濡れながら、途切れ途切れの息と眠りを苦労して吸い込んだ。夜が早く明けて欲しいと思った。