秋葉原の事件について

 今日は仕事を早く上がれたので、東京駅まで歩いた。7時になってもまだ空が青い事に驚いた。ガード下のビビンパ店でキムチ石焼ビビンパを食べているうちに、日は急速に落ちた。新丸ビルの中にある行きつけの服屋に寄って、それから東京駅で中央線に乗った。

 神田から御茶ノ水に向かって走っているときに、少しだけ秋葉原が見えた。赤いライトを灯したパトカーと、灯を落とした街並みが見えた。馴染み深い光景だった。中学生の頃から何度も歩いたことのある道だ。出歩いて浮かれていた気分がさっと引いて、僕は悲しくなった。

 あるwikiサイトに事件の情報が色々とアップされている。そこにあった犯人による掲示板の書き込み内容を読んで、悲しさはさらに募った。同時に、不安も感じた。同じように悩み、同じように考えている人間はたくさんいるんだ、恐らく万の単位でいる。僕だってその一人なのだ。ということを犯人に、犯行に至る前の犯人に言ってやりたくなった。

 犯人は決して特殊な人間だったわけじゃない。むしろ、掲示板の内容を読む限り、極めて典型的な人間に思える。独自のところなんて一つも感じられない。だとしたら、今回のような事件はこれから先もずっと起き続けるのか。

 犯人が辿り着いた結論は、要約すると次の通りになると思う。

「誰か1人の人間に愛されるより、見知らぬ7人の人間を殺すほうが簡単だ」

 これは無論、赤ん坊でも反駁できる理屈だ。

 なぜ彼が悪くなってしまったのかと言えば、彼が悪かったからだと言うほかない。ではなぜ彼は悪かったかといえば、それより前の彼もやはり悪かったからだ。実際のところ彼は悪かった。だから悪くなった。悪いものからは悪い結果が生まれ、悪い結果がものをさらに悪くする。するとそのさらに悪くなったものがさらに悪い結果を生む。そういった連鎖の末にあの犯行があったのだと思う。

 そういう負のスパイラルから抜け出すには、まず悪くならないうちに早めに対処するという方法がある。悪くなり方が小さいうちなら簡単に対処できるからだ。だが、もし大幅に悪くなってしまった後にはどうするか。そこから抜け出すためには、想像を絶するエネルギーが必要ではないか。それが外からのものにしろ、内からのものにしろ。

 エネルギーは勇気と意志だと言い換えても良い。彼が何かのきっかけで自ら勇気と意志を持つか、他人が自分の勇気と意志を持ち込むか、どちらかが必要だった。だが、そもそも悪くなったものに運良く勇気と意志が生じる可能性は低い。悪いものに他人はなかなか寄り添わない。そしてさらに悪い事に、悪いものは勇気と意志に鈍感になっている。生半可では効かない。

 僕たちは勇気が賞賛されることを知っている。そして、自分でもそれを持ちたいと常に意識している。だが、世間で盛んに持てはやされているのは、良いものを手に入れるための勇気ばかりではないか? 恋に勝つための、成功を収めるための、名声を得るための、悪いものを切り捨てるための、そういった勇気ばかりが賞賛されていないか?

 悪いものに寄り添う勇気というものがあると僕は信じる。悪いものを引き受け、受け入れる勇気だ。やっぱり失恋し、やっぱり失敗し、やっぱり馬鹿にされる、敢えてそういう結果を引き受けることも勇気と呼ばれる。一般に良いとされているものを遠ざけ、グロテスクなもの、疎外されているもの、好きになれないもの、そういうものに敢えて近づくのも勇気と呼ばれる。そういう勇気も高尚で偉大なものだと思う。

 いやむしろ、そういう勇気こそ偉大なのだ。良いものに向かうときは、良い結果をイメージして自ら励ますことができる。だが悪いものを引き受けていくとき、その先には悪い結果しか見えない。孤立無援だ。それでも敢えて行なう。何故行なうのか? そうすることでしか近づけない場所がある。僕はそれを感じる。

 良いものは放っておいても良くなれる。悪いものは放っておくとどんどん悪くなる。双方が極まったとき、人類は恐らく二つに裂ける。本当に優れたものは、二つの極を一つにまとめなおす。それは良いものだけではできない。無論悪いものだけでもできない。

 自分にしろ他人にしろ、悪いものに寄り添い、理解し、引き受けていく事こそ本当に偉大で勇敢なんだと思う。そうして初めて、悪いものを良いものに変えることができるのだ。