孤高と理想

 もしどうしようもなく孤独を感じたら、それを孤高と呼べ。
 もしどうしようもなく意地を張る自分を見つけたら、それを理想と呼べ。

 救急車に運ばれた時も雨だったなと思い返し、こわごわと電車に揺られていた。ぼんやり考え事をしているうちに乗り換え駅を過ぎてしまい、少し遠回りすることになってしまった。どちらにしろダイヤは風雨で乱れていた。
 漱石の「明暗」を読み始めた。最初の2・3ページで、これは漱石の最高傑作ではと感じた。まだ読破していないので何ともいえない。それに「明暗」は未完だった。漱石が執筆中に胃潰瘍で死んでしまったのだ。
 そういえば、バッハの演奏で有名なピアニストのグレン・グールドも、晩年に漱石の「草枕」を読んでいて、そして夭逝していた。しかも漱石と同じ50歳でだ。僕は、生意気なことに漱石にもグールドにもなんとなく親近感を抱いてしまっている。だから、2人と同じく50歳くらいで夭逝するかもしれない。そういうところだけなら簡単に真似できる。
 そして、T先生も50歳くらいで夭逝してしまったのだった。心臓発作だったらしい。
 僕は傲慢なことに漱石にもグールドにもT先生にも共感するところがあったので、50歳くらいで夭逝するという確信はさらに深まる。
 T先生は厳しい先生だった。僕はT先生に専門学校でエンターテイメント小説の執筆方法を教わり、知的な生産技術の基礎を叩き込まれた(僕にそれがあると言えるなら)。
 T先生に褒められたのは、僕が記憶している限り1回だけだ。最初の年の夏に提出した100枚の小説が妙に褒められた。今読み返してみると、ひたすら力んで混乱のきわみにあるゴテゴテした文章だ。その中に何を読み取ってもらえたのか分からないけれどとにかく褒められた。しかし、作品に自信を持てなかった僕はそれを根本的に改稿してしまった。それから専門学校の2年間とOB・OG勉強会の4年間、書いては怒られる生活が続いたのだった……。
 そんな先生から与えられた罵倒の中で、今も響いているものがいくつもある。

「自分を守ろうという気持ちが強すぎる。鎧を捨てろ!」
「もっと裸踊りをしないとダメだ!」
「読者を変えろ!」(ここを出て行けの意)
「もう、いいんじゃないか」

 振り返ってみれば、先生に言われたことはすべて正しかった。
 僕は確かに自分を守ろうとばかりしていた。裸踊りをできないでいた。正しい読者層を想定しておらず、自分の作品を読んでくれそうな人の周辺にもいなかった。そして、エンターテイメントを教える先生の下では書くための方法論を構築できなかった。僕は今そうであるように、純文学志向の人間だった。だけど、どうしてだか先生の下にいた間それを明言することができなかった。
 僕はエンターテイメントにしがみつくのを辞めて、純文学を志向することにした。
 自分を守ろうとしてしまうのは、自分のことを知らないでいたからだ。裸踊りができなかったのは、裸がどんな状態なのかを知らなかったからだ。今も分からないでいるかもしれない。
 先生のもとを去るときは、本当に悩んだ。勉強会には苦楽を共にしたたくさんの友人がいた。会を出て果たして一人で書いていけるのかも不安だった。僕は先生に見限られたのだという意識もあった。あと1年先生と正面切って戦って、それから去ろうかとも思った。だけどもう6年も続けていることだと思って止めにした。
 僕は先生のもとを去った。
 最後にお別れの挨拶をメールで出した。「これからは自分で自分の書き方を探してみようと思います」と。そのメールにはついに返信がなかった……。

 あれから僕は、少しは裸踊りができるようになったでしょうか?
 文章を、防衛のための鎧ではなく、攻撃のための剣とすることができるようになったでしょうか?
 自分の作品を受け取る人たちのことを、少しは思い浮かべることができるようになったでしょうか?
 まだまだです。もちろんまだまだです。これから、今から、僕は新しい書き方を始めなければなりません。
 だけど、一つだけ確信したことがあります。
 あれほど長いあいだ先生にしがみついていたのは、先生の周囲に居ることで安心していたいためでした。
 僕は勉強会に居て、何かをごまかした文章を書いて、ただそれだけで安心している、そういう人間に成り下がっていました。
 だから、苦痛とともに先生の元を離れたのは、正しいことでした。本当に正しいことでした。
 ごまかすためではなく明らかにするために、防御ではなく攻撃のために、書け。
 そういう解釈で良いでしょうか、先生?

 今年の正月に先生は突然亡くなった。

 自分の胸が奇妙な響きを立てるたびに、僕はその瞬間を想像してしまう。