天罰

 仕事から帰って来て体重計に乗ったら、55kgになっていた。53kgといったふざけた数値は、もうあまり出てこない。しかし、体脂肪率が相変わらず5%のままだ。体脂肪率が低すぎると病気に対する抵抗力が落ちる。つい先日も風邪を引いてしまい、1週間経って症状が治まった頃にまた突然ぶりかえした。油断ができない。
 僕の身体は、知らないうちに妙な調子になっていたようだ。4時間睡眠を続けたり、片道1時間半の電車通勤を行なったりしていることが原因かもしれない。食も細めで、ずっと朝食を摂っていなかった。
 身体の変調が激しく降りかかったのは、先月半ばのことだ。朝、いつも通り最寄駅を目指して歩き出すと、胸が痛くなった。ちょうど左胸の心臓の辺りだ。長距離走をしているときに陥るような激しい痛みで、それが10メートルも歩くと出てきた。その日は我慢してどうにか会社に行き、次の日の午前中に呼吸器科に行った。
 レントゲンと心電図検査を受けたけれど、原因はよく分からないと言われた。ただ不整脈が心電図に出ていた。2週間後に精密な検査を行なうことになり、念のためということでニトログリセリンを処方された。心筋梗塞のときに口に含むものだ。
 何日か経つうちに胸の痛みは徐々に軽くなっていった。僕は心臓病だったときのことを考えて、なるべくコレステロールや糖分の低い食生活を心がけた。カフェラテに砂糖を混ぜるのをやめたり、間食を控えたり、なるべく和食を摂るようにした。ちなみに僕は自炊していない。
 だいぶ胸の痛みも引いてきたある日、いつもの通り電車に乗って職場を目指している最中に、突然気分が悪くなり、しかも視野が真っ暗になった。慌てて電車を降りて、駅員の事務室に駆け込んだ。自分の身体に何が起きたか良く分からなかった。脇腹から締め付けるような圧迫感があり、指や足の末端が冷たくなっていた。事務室の椅子で休ませてもらっているうちに症状は軽くなったけれど、息苦しさは続いていた。こんなときこそと思い、ポケットに仕舞ってあったニトログリセリンを口に含んでみる。胸の動悸が強くなったけれど、別に息苦しさは軽くならなかった。
 椅子に座っている限りは平気だった。だけど、また電車に乗っても同じことの繰り返しになりそうだった。何より、身体に何が起きたのかが分からない。今までの胸の痛みとは明らかに違う。目の前が暗くなったとき、意識も失いそうだった。
 僕は心配になって救急車を呼んでもらうことにした。本当に何かがあったら困る。それに、今年だけは絶対に死にたくない理由があった。
 救急病院では、地元の呼吸器科よりずっと幅広い検査を行なってくれた。超音波検査から血液検査・レントゲン・CTスキャンまで、検査機器の方から患者の所へ来てくれた。息苦しさや手足の冷たさはまだあったけれど、視野も意識もずっとはっきりしていた。何人もの医師に丁寧に看てもらうのが何だか申し訳なく思えた。
 胸痛の原因は、自然気胸という病気だった。肺に穴が空いてしまうという、痩せ型の男性に多い病気だ。レントゲンではほとんど分からず、CTスキャンでようやく見えるほどの軽いものだった。自然気胸はよほど重くない限り命には関わらない。心臓病よりはずっと軽い病気だ。ただ、肺の穴が塞がるまで1週間ほどの静養は必要だと言われた。
 午後2時頃には救急病院を出ることができた。病院には救急車で運び込まれてきたので、自分がどこにいるのか分からなかった。職場や家族への連絡を携帯電話で済ませ、コンビニの店員に道を聞いて帰路についた。今度は歩いても、電車に乗っても平気だった。
 天罰が当たったかな、と思わずにはいられなかった。胸痛の始まる前日に天罰の心当たりがあった。今年の初めに亡くなられてしまったT先生と、先生から受けた数々の怒号のことを思い出した。そして、それら怒号がすべて「正しい」ものだったことに思いを巡らせる。僕は、まだ痛む胸を抱えて通勤路を逆走した。胸の穴を塞ぐために、とにかく休まなければならなかった。