故郷

「そこへはいっていける場所というのがある。また、出ていける場所というのもある。しかし、出ることもはいることもできる場所が、もし見つかれば、唯一のその場所こそ故郷ということになる」
――ジョージ・マクドナルド「リリス

 八王子に住んでもう5年目になるけれど、私はこの街に住んでいる、という気が一向にしない。不思議なことに、2年しか住まなかった港区赤坂や新宿界隈、それに郷里の埼玉では、自分が住んでいたという感覚が訪れるたびに強くよみがえる。
 この街は私に何も語りかけてくれない――ふとそんな気分にとらわれる。とりとめのない猥雑な街並みや無表情な車の群ばかりで、この街は目の前にそうある以上のものを決して見せてくれない。それは私の見る努力が不足しているだけなのだろうか? いまや日本のどこへ行っても、猥雑な街並みや無表情な車ばかりではないだろうか……。
 だけど、とにかく八王子の空気に馴染めないでいるのは確かだった。いや、馴染むための空気が感じられない。無味乾燥とした空間だけが東京の西の果てに広がっていて、そこには生きて呼吸する空気がなかった。
 故郷とは、探し当てるものだと思う。今の私にはもはや故郷はない。それは自分でどこかに探し当てるほかない。そのためにいつかはこの街を出て行くことになるだろう。
 自分が住むべき空気を私はいつか夢に見たように思う。決して焦点の合わせられない曖昧な映像でしかないけれど、そこはきっと物語のある土地なのだろう。由来があって、歴史があって、そして自分がいることに意味があるという場所だ。別に多少空気が濁っていたって、あるいは極端に澄んでいたって構わない。そうした場所を私はいつか自分で選ぶだろう。
 祭の楽の音が、街のあちこちから聞こえてくる。何はともあれ、この物語のない街で今年の夏もやり過ごさないといけない。