遠野散策記(1)

「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」(柳田国男遠野物語」より)


 九月二十七日〜二十九日に掛けて、岩手県遠野市を旅行した。
遠野物語」という、柳田国男による民俗学の古典がある。民話というものを初めて書物にまとめたもので、遠野郷で語り継がれていた民話が百十九編収められている。河童や天狗・山男・山女・オシラサマ・狐・白鹿・鬼などのたくさんの怪異が、独特の淡々とした文体で語られる。
 今回訪れた岩手県遠野市は、名前の通り「遠野物語」のふるさとだ。いわば物語の故郷とも言うべき土地で、一度行ってみたいな、と前から思っていた。今回、夏休みをずらす形で長い連休が取れたので、この機会に訪れたのだった。

 現地までは、新幹線とJR釜石線を乗り継いで行った。新幹線は大宮から新花巻までの切符を買った。花巻と言えば、宮沢賢治の出身地だ。時間があれば立ち寄ることができるかもしれない、と思ったけれど、列車の時刻を調べたらまるで余裕がなくて、ただ乗り換えるだけになってしまった。
 行きの新幹線の車内で、ベタだけれど新潮文庫版「遠野物語」を読んでいた。改めて読み返すと、とても面白い。文語調で読みにくいところもあるけれど、その分旅情を誘われる。

「山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛と云ふ人は今も七十余にて生存せり。此翁若かりし頃猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りて居たり」(「遠野物語」三)

 大宮から新花巻までは、ほんの二時間半程度だった。新幹線は偉大だ。
 新花巻で降りると、空気が急に冷たくなった。駅前は割と閑散としている。駅前ロータリーの先に「山猫亭」があった。それと、「セロ弾きのゴーシェ」のレリーフも置いてあった。ただ残念ながら、釜石線の発車時刻が近づいていたため、ゆっくり見ていられなかった。

 新花巻駅の脇にある釜石線の駅は、ホームが一つしかないローカル線の終端駅だった。券売機もなくて、SUICAの生活に慣れてしまっていた僕は、駅員から切符を買うのにも緊張してしまう。おまけに、周囲が既に岩手語の世界になっていた。僕は東京語しか話せなくて、それも緊張の種となった。放送で初めて気づいたけれど、遠野の発音は東京語で「とおの」、岩手語で「とおの」らしかった。今までずっと何の疑問も抱かず東京語を使っていたので、ハッとさせられた。遠野市とか言う場合はどうすれば良いのだろうか……。
 細いホームで待っていると、やがて緑色のディーゼル列車が三両編成でやってきた。多分八高線と同じ車種だ。構内放送によると、なぜか指定席があるらしい。僕はどう考えても普通の切符を買ったので、自由席の車両に乗った。
 列車の座席は、新幹線のように横並びの座席に座るタイプ、いわゆるクロスシートだった。思ったよりも乗客は多く、「ガラガラ」というわけには行かなくて、乗車率四十パーセントは超えていたと思う。本数が少ない分、自然と乗車率は高くなるのだろう。
 バッグを席の下に押し込んで座る。やがて、古いディーゼル列車特有の振動を立てながら、車両が走り出した。

 静かな谷あいの路線だった。
 昼間の明るい日差しが山と山のあいだを満たしていた。切り立った崖の端を辿ったり、自然のまま曲がりくねっている川を見下ろしたりしながら、列車は走っていく。
 金色の水田がときおり外をよぎっていく。湖のように広々とした水田もあれば、笑ってしまうくらい可愛い小さな棚田もあった。どの水田もよく手入れされていて、金色の穂でまっ平らに満たされている。水田のそばに建つ家並みの軒下には、コスモスがたくさん散らばって咲いていた。
 一時間ほど電車に揺られると、徐々に視界が開けてくる。山間を抜けて、盆地である遠野に入ってきたのだ。山の影がずっと後ろの方に引いていく。代わりに、金色の水田が景色を満たした。

 やがて遠野駅に着いた。ひなびた感じのする駅だったけれど、さすがに駅前だけあって、線路沿いには新しい建物も多く建っていた。
 跨線橋(こせんきょう)の窓から、花巻方面の山から線路が伸びてくるのが一望できた。反対側の釜石方面に目をやると、すこし先で小さな橋が線路を跨いでいた。

 駅舎は、レトロなデザインの大きなものだった。「遠野駅」という看板の書体がなんだか面白い。駅前の広場に出てすぐ、河童の像が目に付いた。なぜか皆はっぴを着ている。(写真参照)お祭りでもあったのだろうか?
 着いたのはちょうど午後一時半頃で、ホテルのチェックイン時間までは間があった。そこで、荷物をコインロッカーに預けて辺りを散策してみることにした。

 駅前の商店街は閑散としていた。今時の地方はきっとどこも同じようなものだろう。古びた民宿や、営業しているのかどうか良く分からない食堂が見受けられた。少し歩くと、「とぴあ」という大きなスーパーがあった。埼玉で言うところの「ヤオコー」、都内では「西友」といった所だろう。遠野にはなかなか似つかわしくない建物だ。
 この時まだ昼食を済ませていなかった。何か遠野らしい食事が出来るところはないかな、と駅前の通りを往復してみたけれど、なかなか見つからない。大きい寿司屋が営業していて、ランチメニューがあったので、ついそこに入ってしまった。そして、こんな山間の町で、何を思ったのかちらし寿司定食を頼んでしまった。しかも食後にはコーヒーまで付いてきてしまった。全然遠野らしくなかった。後悔した。

 腹拵えを済ませて散策を再開する。駅前に戻ってみると、
「あ、交番がカッパだ!」
 屋根に目玉と皿が付いていて、建物全体がカッパの顔になっている、おまけに片目をつむってウインクしている、という事実に今更気づいた。そして、写真を撮るのを忘れた。
 駅前商店街の散策を続ける。
 一ブロックほど奥に入ってみると、古い建物が目に付くようになった。相変わらず閑散としている。花屋があったり、瀬戸物屋があったりした。また、「遠野郵便局」という場所があった。遠野郵便局! 何となく、こう、旅情を誘われる名前ではありませんか? と思い、胸が高鳴った。
 しかし何の変哲もない普通の郵便局であった。
 そんな散策を続けながら、宇迦神社という街中のお社を見つけた。これは現地の神様に挨拶をせねばなるまい、と思い、小さい鳥居を潜る。

 葉擦れの音が突然大きくなった。
 どこから吹いてくるかも分からない風が、ほんの数十歩程しかない短い参道を満たしていた。
 古ぼけた社が、両脇を建物に挟まれて、薄暗い陰を落としながら、うずくまるように建っていた。左隣は煤けたコンクリートの古いビルで、右隣は、なぜか取り壊し中の民家だった。茶色い壁の中央に、ガラスを割られた黒い窓が開いている。
 ひときわ強い風が吹き、くすんだ黄色の枯れ葉が宙を横切って落ちてきた。ふと、社の脇に目をやると、暗がりの中に大きな石碑が立っていた。
 まるで巨人のような形の石碑で、足元の方が細く、胸の部分が大きく膨らんでいる。そこに、力強い文字で「山神」と刻まれていた。
 ここには何かがいる、と思った。
 怖くて写真を撮るつもりにもなれなかった。僕は賽銭の百円玉を投げて、早々とそこを後にした。

遠野物語」の注釈にこんな記述があるのを、僕は後で見つけた。

「遠野郷には山神塔多く立てり、その処は曽(かつ)て山神に逢ひ又は山神の祟(たたり)を受けたる場所にて神をなだむる為に建てたる石なり」

(つづく)