祖父について

 マイケル・ジャクソンが死んだ翌日、母方の祖父の通夜が行われた。84歳だった。


 20年ほど前に撮られた定年間近らしい祖父の写真が、1枚残されている。永年勤めた工場の一角で、直立不動の姿勢でまっすぐこちらを見据えている。眼差しにはどこか張り詰めたものすら感じる。
 実直な人だった。戦中からひたすら工場で働き、家を構え、家族を養い、3人の子をもうけた。毎日仏壇にお経をあげ、線香を焚いていた。町内会や先祖代々の寺の集まりでは進んで役職を務めた。野良猫を飼うほかに趣味もなく、ただ勤勉にまっすぐ生きていた。

 母の実家へ帰るたびに、僕は祖父に足の爪を無理やり切られた。そして、悪筆を直すため字の練習をさせられた。祖父は毛筆できっちりとした楷書を書けるのだった。幼い僕は、どうにかしてそれから抜け出し、庭の探検に出掛けたり、猫を追い掛けたりした。

 ずいぶん昔、ちょうど日食が見られる時に帰省した事があった。線香の煙で曇らせたタッパーの蓋をフィルターにして、祖父と一緒に太陽を見上げた。蓋が煤で曇りすぎて、日食はよく見えなかった。それほど煤が出るのなら、燃やしていたのは線香でなかったかもしれない。かざしていたのも、タッパーの蓋ではなかったかもしれない。今となっては確かめようがない。ただ、日食が見えなかったのは確かだ。

 晩年の祖父は決して幸福そうではなかった。老年性のうつ病に罹ってしまい、実家を訪れるといつも寝ているようになった。僕が床の間へ線香をあげに行くと、
「あきら、わしはだめだ」
 と呟くのが聞こえた。
 ここ数年、祖父が起きているのをついに見なかった。そのうつの中を、身体だけは平気で何年も生かした。

 祖父とは対照的に、祖母はいつまでも気丈さを失っていない。長男(僕からすると伯父)を早くに亡くし、くも膜下出血で手術を受け、癌で胃を摘出しても、ボケることもなく畑を耕し野菜を作り続けている。祖父が寝込んでから、家をずっと1人で支えている。

 最後に祖父と会ったのは、6月の最初の頃だった。
 癌が見つかり、既に手遅れだということを僕は聞かされていた。一度は入院したが、手の施しようがないので、何もせずに自宅療養ということになったらしい。

 いつもと同じ布団の上に横たわっていた祖父は、見るからにやせ衰えていた。胸が落ち、身体全体が薄っぺらになっていた。寝巻きから出ている手だけが水腫で異様に膨れている。
「あきらが来たよ、わかる?」
 母が言葉を掛けたが、祖父はそっぽを向いていた。そして、じっと何かに耐えていた。モルヒネと点滴を打ち続けて、痛みと熱とうつに耐えているのだ。
「お久しぶりです……」
 僕は他に言うことを思いつけなかった。
「わからん」
 そっぽを向いたまま祖父はうなった。
「意地張ってるんだ」
 と叔母が言った。

 6月21日の深夜に訃報を受け取った。そうして26日が通夜だった。

 やはり同じ布団に、白い顔で祖父は寝かされていた。紫色の死装束に、恐ろしく縮んだ身体が包み込まれていた。薄い目と唇は閉じられて糸のようになっていた。そこにはもう祖父はいなかった。
 女性の納棺師に従って、みんなで遺体に足袋を履かせたり手甲を着けたりした。僕は祖父の足首を持ち上げた。きっと冷凍されていたのだろう。恐ろしく冷たくて重い足首だった。かすかに死臭がした。
 祖父を棺に納めると、縁側に焼香台が用意され、お坊さんがお経を読み始めた。親族は祖父の遺体を挟んで弔問客と向き合うように座り、誰かが焼香をするたびにお辞儀をした。訪れた人は、親族や近所の人ばかりだった。祖父母と同世代か少し下くらいの人ばかりで、僕の母より若い人すら見かけなかった。

 型どおりに葬儀は進んだ。告別式があり、遺体はやがて荼毘に付された。
 火葬というものに僕はなんとなく残酷な印象を持っていたけれど、このときは、あれほど冷たくなってしまった祖父の身体に熱を与えることがまったく正当なように思えた。遺体を炉に入れてから、僕らが昼食を食べている間に、祖父は白い骨になった。
 骨は、薄暗い部屋で金属のワゴンに乗せられて出てきた。バラバラになった骨は真っ白で、なぜかところどころ玉虫色を帯びていた。無機質な世界の光景だった。
 陶器の骨壷が用意されていて、鉄の箸でそこへ骨を入れていく。頑丈だった人らしく、骨が骨壷に入りきらないほどだった。骨壷は、重かったので僕が抱えた。

 祖父は実直な人だった。戦争を乗り切り、まじめに働いて家庭を守った。誰に対しても胸を張れる立派な人生だ。祖父のような人間こそが、今の日本を築き上げたのだと思う。
 だが、それで祖父は何を得たのだろう? うつ病に罹り、癌を患い、これといった楽しみも持たないまま死んでいった。実直に苦しみを耐えて、耐えて、耐えて、死んだ。そこには何も解決や解消が見当たらない。
 これは巨大な詐欺ではないか? 祖父の人生はすり減らされ、使い切られてしまったのだ。その結果は、せいぜい出来の悪い3人の孫だけだ。大して祖父を尊敬しなければ親切にもしなかった。祖父はどんな対価も得られなかったように思える。これが詐欺でなくて何だろうか?

 しかし、祖父のような死が用意されていたとして、そこにどんな対価があれば正当だと言えるのだろうか? どんな快楽も資産も死んだら無意味だ。手に入れたと思った何もかもを、本当はまったく自分の物になんてしていないのだ。死に対峙するとき、自分が何を大事に抱え込んでいても、結局は無意味だった。
 死ぬという現実がある限り、人生に対価を求めれば必ず裏切られることになるのだ。

 だからたぶん、人生は対価を得るための活動ではないのだと思う。
 人生は、自分以外の誰かのためにだけ存在しているのだ。

 よくよく思い返せば、命も身体も借り物だった。それは決して自分のものではなくて、送り主も宛先も内容もわからないメッセージとして自分に任されているに過ぎなかった。
 僕らはそれをぎこちなく伝えていく事しかできないのだ。祖父が無意識のうちにそうしていたように。どんな考えでどんな生き方をしても、自分のためだけに生きるのは不可能で、最後には結局、他者のための人生ということになってしまうのだ。

 僕は祖父から全部受け取ってしまった。祖父はそのために、人生を使い果たしてしまった。これ以上受け取ることはもう望めない。
 だから、祖父からもらったものを、僕はそろそろ誰かに伝えていくべきなのだ。