悲しい気持ち

 午後、昼食を摂るために外に出たとき、悲しい気持ちに襲われた。
 未知の臓器が胸の中心にあって、それが震え出すような感じだった。身体の輪郭がぶれて重くなり、目に涙が少し溜まった。
 僕はなんて不器用な人間なのだろう、と思った。忘年会が続いていて、みんな酒の席で楽しく過ごしているのだけれど、僕は場をどう盛り上げれば良いのか分からずにじっとしていることが多かった。他の人より明らかに話す回数が少ないし、みんながそれを楽しめているとも思えない。
 僕は不器用で社会に適応できない異邦人なのだった。僕に比べたら、他の誰も彼もみんな人々に溶け込んでいて、まっとうな社会の一員として生活しているように思える。それに比べて、僕はなんと異様でグロテスクな人間なのだろう。
 僕は今のうちに死んでしまった方が良いのかもしれない。どんな方法で死んだら良いだろうか。鉄道自殺は迷惑だし、華々しすぎる。首吊りや手首切断は生理的に嫌だ。
 そうだ、山へ行こう。そしてひっそりと餓死するのだ。樹海のようなメジャーなところではなくて、どこか秩父辺りの人に知られていない山林が良い。正式な手続きを取って仕事を辞めて、お世話になった人にそれとなく挨拶をして、それから山へ向かうのだ。何十年も、いや、永久に見つからない。僕はこっそりと山へ還るのだ。そんなのが良いなと思った。
 そこまで考えたところで、これは気分障害というものではないかと気付いた。忘年会で僕が不器用に振舞っていたのは確かだけれど、それは飲みの席には付き物の事だった。何も今回が初めてじゃない。この気持ちに、何か特別ではっきりした原因があるわけじゃなかった。むしろ、身体が悲しんでいて、それに僕の気持ちが引きずられているようだ。
 なるほど、うつ病とはこういうものなのかもしれない。悲しんでいるのは身体全体で、心は否応無くそれに付き合わされる。確かにこんな状態で頑張ることなんて出来ないし、気の持ちようで何かを変えたりすることはできない。うつ病に実際に罹ってしまった弟や祖父の気持ちがこのとき初めて実感できた。これは恐ろしい。うつそのものも、それがやってくるかもしれないという不安も恐ろしい。
 僕の症状は数十分で消えて、それから何度か断続的に戻ってきた。今でも少しだけその「気持ち」が残っている。もし何日も続くようだったり、仕事に行けなかったりしたら、心療内科を訪ねようと思う。