恋をしていた頃

 以前暮らしていた街を久しぶりに訪れた。そこは本当に東京の真ん中で、大使館や国の機関がたくさんあるところだ。空にはビルや高速道路のジャンクションがひしめいている。
 ここに住んでいた頃は、ジーンズを履いて、パーカーを着て、ガラス張りのブランド店やホテルの間をこそこそと歩いていた。良い身なりをした大人たちや眩しい照明にいつも怯えていたっけ。
 今はジャケットを着て、好きなネクタイを締めて、もう何かに怯えることもなく歩くことができる。住んでいた部屋は駐車場に変わり、ビルの幾つかは建て替えられて、僕は相変わらず一人なのだけど。
 同じ路地を歩きながら、昔の僕は何を考えていたのだろう。何を感じていたのだろう。大雑把に言えば変わっていない街並みを眺めながら、昔の自分の気持ちを引き寄せてみる。
 そうだ、あの頃、僕は何もかもに恋をしていたんだった。
 本当に誰に対しても恋をしていた。道を行く美人のOLや、カフェの店員や、顧客だった社長の令嬢、そびえ立つビルのオフィスとそこに並ぶ机、きらびやかなイルミネーションとベンチに座るカップル、狭い道を苦労して通り抜ける外車の列、ほんの小さな照明だけが灯るフレンチ・レストランの入り口、分厚いドアの向こう側にある高級製菓店のカウンター、マネキンの肩に掛けられた厚手の生地のコート。
 何もかもに恋をしていた。僕は世界に恋をしていたのだ。
 世界に恋をして、だけど流し目で見た何もかも振り向いてはくれなくて、自分自身を呪いながら背を丸めて歩いていたのだ。
 世界に対する恋は結局片思いに終わって、僕は自分が持っているもので満足し始めていた。
 今、僕は何に恋をしているんだろうか。
 僕は何かと両思いを始められただろうか。